新居浜暮らしブログ
2019.06.24
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この記事の「ええね!」
伊庭貞剛
【OB】篠原 淳史
江上剛著「住友を破壊した男 伊庭貞剛伝」。
読みながら、今すぐにでも別子の山々を歩きたい・・・・・、そんな想いに駆られる一冊でした。
伊庭貞剛。
叔父である広瀬宰平翁に誘われ、1879年 住友に入社。1894年に別子支配人、1900年に第二代 住友総理事。
別子支配人としての新居浜での 5年間で、荒廃する別子銅山の人心を一新すると共に、煙害に苦しむ新居浜市民、禿山となった別子の山々とも正面から向き合った「別子銅山 中興の祖」であり、CSR(企業の社会的責任)の先駆者であります。
曰く「君子財を愛す、これを取るに道あり」。銅山の人心の荒廃を看て取り、現場に足を運び 一心に対話に努めたのも、煙害対策としての製錬所の四阪島への移転も、禿山を緑に復すための年間百万本を越える植林事業も、すべて「財を成すにも、決して人の道は外れない」という強い信念に基づくもの。
曰く「事業の進歩発達に最も害をするものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」。1904年、総理事就任から僅か 4年後の 58歳で「最高の位、最高の禄、これを受くれば久しく止まるべきではない」として後進に道を譲り、早々に勇退。老人がいつまでもはびこることは、上下の意思疎通を欠き、そのことが後進のやる気をなくし、ひいては組織を崩壊に導くものと感じ取っていたものです。
勇退後の余生を送った滋賀県大津の別荘「活機園」の家屋には、別子銅山の職員一同が餞別に贈った木材が用いられているそうです。住友の聖地とも言える活機園に、伊庭貞剛の別子在勤の証が、そして別子銅山、更には新居浜の恩人に対する人望と尊敬の証が集まっているんですね。
貞剛翁の想い「別子全山を旧のあをあをとした姿にして、之を大自然にかへさねばならない」のままに、青々とした姿に復した別子の山々。
そして、冒頭の表紙にも描かれている四阪島製錬所から移築された日暮別邸、そして遥か望む四阪島。1939年、亜硫酸ガスの中和脱硫に成功し、煙害問題はここに漸く終息しますが、これも貞剛翁の煙害と向き合う真摯な姿勢がなければ叶わなかったことと思います。
先日、BS 朝日「百年名家」にて紹介された旧広瀬邸。タイトルは「近代を背負った男の邸宅」。
住友総理事 初代 広瀬宰平翁、二代 伊庭貞剛翁。この近代を背負った叔父、甥二人がリードし、残してくれた別子銅山と故郷 新居浜。
それは、産業遺産に止まらず、宰平翁の「逆命利君」、また貞剛翁の揺るがぬ経営ビジョン、即ち「事業というものには絶えず現実問題がつきまとうが、そうした現実に拘泥せず、理想という大きなビジョンを忘れてはならない」と教えてくれている気がします。(「逆命利君」についてはこちら→→) https://life.city.niihama.ehime.jp/blog/985/
今こそ、貞剛翁の教えを胸に、新居浜に理想高きビジョンを!