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2018.11.29

別子銅山について

【別子銅山について】新居浜クロニクル vol.1

“東洋のマチュピチュ”東平(とうなる)

ここは鉱山町の夢のあと。銅山の施設だけでなく、学校、病院、劇場などもそろっていた。最盛期の大正時代は、約5000人が暮らし、別子銅山の中心として花開く。

今、崩れかけたレンガや石垣に雑草がまといつく姿は、哀愁を漂わせながらも、かつての繁栄を雄弁にものがたり、夢を追った人々の、喜びと哀しみとふんばりが、見えてくるようだ。

選鉱場と索道停車場跡。搬出された鉱石は、選鉱場で鉱石と岩石により分けて、順次、索道(ロープウェイ)で、ふもとに下ろした。そこから鉄道を経由して、新居浜市沖の製錬所まで運んだ。


東平イラストマップ(PDF)はこちら

栄光と切ないドラマを秘めた鉱山町

別子銅山は、江戸の開坑から明治まで、標高1000mを超える山中(旧別子と呼ばれる)にまちができ、採掘や製錬が行われた。明治になって近代化されると、何千人もの人で賑わった。

山頂から始まった採掘が徐々に低い場所におりるにつれ、鉱山町もおりてくる。大正時代には、北側の中腹750mの東平に、その中心が移った。ひな壇状に石垣を築いて大規模に開発されたまちである。

昭和に入ると中心はさらに下って山裾の端出場(はでば)に移り、昭和48年の閉山を迎えることになる。
旧別子も東平も、険しい斜面に、銅山施設、社宅、学校、劇場が立ち並び、鉄道も敷設された。山中ですべてのことが足りる一つのまちである。歌舞伎の興行が行われたり、生活用品が運ばれたり、地上より豊かな暮らしを享受できたようだ。

だが、冬の寒さや豪雪など、山中での苛酷な労働環境に加え、火災や風水害にもしばしば見舞われた。それでも、明治の初めにやってきたフランス人技師は、別子の住民は真摯で我慢強かったと、記録に残している。

ここで働き、結婚し、人生を終えた人々。彼らが新居浜の礎を築いた事実が胸を打つ。

時代のトップランナーたち

新居浜のまちが発展するのは、明治になって銅山の施設が平野に移ってからだ。別子銅山でも新居浜でも、近代化や近代の新しい考えがいち早く開花するが、そこには先見の明を持つ、住友のレジェンドたちがいた。

まず、初代総理事の広瀬宰平(ひろせさいへい)。彼は明治の初め、西洋の最新技術を取り入れて、手作業だったそれまでのやり方を大胆に改革する。また本格的な製錬所を作り、山中の銅山と平野の製錬所をドイツから輸入した鉄道で結んだ。別子の採鉱高はぐんぐん増え、日本の国力アップにも大きな貢献をする。
まちはその後、洋風の銀行や病院も作られて発展していった。

2人目は早くから環境問題にとりくんだ二代総理事の伊庭貞剛(いばていごう)。銅の製錬で禿げ山になっていた別子に、明治時代から長年にかけて年間百万本を超える植林を進めた。その結果、別子の山は美しい緑の森に還った。

3人目は住友別子銅山最高責任者の鷲尾勘解治(わしおかげじ)。昭和の初め、銅山なきあとのまちの繁栄策を考え、都市計画をうち立てた。

別子銅山は新居浜を四国屈指の工業都市に導き、また、別子を母体に住友のたくさんの事業が生まれていった。
いつの時代もこのまちは最新の知識や技術や思想を取り入れたが、その足跡があちこちに残っていて興味深い。

四阪島は“海の別子銅山”

無人島に、社宅、学校、病院、商店街、劇場などを作り、人口5000人を超える時もあった。
四阪島製錬所は、煙害をなくすため、明治38年(1905)に作られたが、被害は逆に広がった。昭和14年(1939)中和工場の完成により、煙害問題が完全解決する。

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