新居浜暮らしブログ
2019.06.19
まち
この記事の「ええね!」
多・喜・浜
【OB】篠原 淳史
GWに開催された「えひめさんさん物語」第一話「ものづくり物語」の舞台となった大伸ステンレス、大石工作所がある多喜浜は、新居浜の技術の匠が集まる工業団地。
でも、かつては日本有数の大塩田。その面積 238 haは、なんと東京ドーム 50個分!
歴史は江戸時代 元禄年間 1703年まで遡り、信濃国 深尾権太輔が開発に着手したのが始まり。深尾権太輔病没後、後を引き継いだ尾道の塩田家 天野喜四郎が約 300年前の 1723年から塩田の築造、拡張を推し進めたそうです。
以来、天野喜四郎の子孫の皆さんが代々受け継ぎ、1959年(私の生まれた年!)、製塩技術の向上により塩が過剰生産となり、国策により閉田されるまで、新居浜の重要な産業基盤だったそうです。
多喜浜とは、天野喜四郎による塩田開発が始まった1723年、享保の大飢饉で苦しむ難民を雇い、救済した際、多くの難民が喜んで働いた浜として命名されたとか、塩田(一一浜分)の普請奉行だった多羅尾介之丞と天野喜四郎の名前から命名されたとか・・・・・、何れにしても塩が名付けた町なんですね!
その名付け親 天野喜四郎の久貢屋敷跡には、天野喜四郎の功績を称える顕彰碑と、塩田開発に着手した記念のソテツが植えられています。
顕彰碑の文字は、別子鉱業所支配人 鷲尾勘解治。昭和初頭、別子銅山が鉱脈の枯渇によって閉山の危機を迎えていた頃、「別子銅山ノ末期ニ於テ 之ニ代ルベキ事業ヲ興ス」として、新居浜港の築港、埋立に化学・機械・電力等の工場誘致、社宅・道路整備、鉱山鉄道の一般開放等々、新居浜の都市計画を実践された方。昭和通りの名付け親でもあるそうです。https://www.sumitomo.gr.jp/history/analects/15/
別子銅山と多喜浜塩田、新居浜の経済を支えてきた双璧がここに生きているんですね。
多喜浜小学校には、ミニ塩田「ソルティ多喜浜」「塩の学習館」があり、えひめさんさん物語のチャレンジプログラムの一つとして「多喜浜塩田の歴史と文化・と塩づくり体験学習」が、11/17まで随時開催されていますので、是非、参加してみてください! https://ehimesansan.jp/events/240
北海道と取引される塩の道から、北海道で「ざんぎ」と呼ばれていた唐揚げが新居浜に伝わり「ざんき」として定着した! https://life.city.niihama.ehime.jp/blog/817/
ざんき以外にも北海道から伝えられたものが、アツケシソウ。
塩田周辺各所に自生していたそうですが、廃田になった以降も、こうやって保存に努力されておられる皆さんがいてくださるんですね!
新居浜はアツケシソウ自生の日本の南限。北海道のアツケシソウとはDNAが異なるとの説もあるようですが、北海道からの千石船の船底で新居浜を目指すアツケシソウ、ロマンがあるじゃないですか!
一見、アスパラガスに見えますね! ヨーロッパでは野菜、シーアスパラガスとも呼ばれるそうです!
秋に紅紫色に色づくことからサンゴソウとも! 秋にまた戻って来よう・・・・・!
あぁ・・・・・、塩を追いかけていたら、ざんきが食べたくなってきた・・・・・!