近代化遺産全国一斉公開2021(令和3年度日本博主催共催型プロジェクト)により「別子銅山 産業遺産ストーリー」が制作されました!
今回の動画では、国の重要文化財である旧広瀬家住宅から始まり、点在する登録有形文化財や別子銅山の関連施設を5つのエリアに分けて紹介します。
あなたの知らない新たな産業遺産に出会えるかも?ぜひご覧ください。
動画はこちらからご覧になれます→https://www.city.niihama.lg.jp/soshiki/dozan/douga-zenkin2021.html
5月5日(日曜日、こどもの日)は、広瀬宰平(1828~1914)の誕生日を記念して、広瀬歴史記念館(展示館・旧広瀬邸)を無料公開します。ご観覧の方は、展示館または旧広瀬邸の窓口で無料チケットを受け取り、ご観覧ください。
http://www.city.niihama.lg.jp/soshiki/hirose/muryoukoukai.html
かつて世界最大の産銅量を誇った「別子銅山」。元禄4年(1691年)の開坑から昭和48年(1973年)に閉山するまで283年間もの長い歴史を有し、新居浜市が工業都市として発展していく原動力となったのが「別子銅山」です。今でも市内には、先人の知恵と努力の結晶である別子銅山ゆかりの近代化産業遺産が数多く残っています。
代表的な産業遺産のひとつ「端出場(はでば)水力発電所(平成23年・国登録有形文化財)」の紹介動画を制作し、新居浜市公式ユーチューブチャンネルにて公開いたしましたので、ぜひご覧ください。
http://www.city.niihama.lg.jp/soshiki/dozan/hatudennsyoeizou.html
※ 明治45年に創業を開始した「旧端出場水力発電所」は、一般公開に向け平成30年度から耐震補強等の工事に入ります。工事期間中、建屋が見えなくなる期間も発生することから、煉瓦造りのモダンな建屋外部・内部、水路システムについてのPR映像を制作し、新居浜市公式ユーチューブチャンネルにて公開しました(3DCG、ドローン実写、古写真等を活用)。当時の最新鋭の設備であるドイツのシーメンス社製の発電機が保存されていること、銅山越え南側の吉野川水系の銅山川の水を利用したこと、当時東洋一の597メートル落差の水圧鉄管を使用したこと、当時世界一と言われた20キロメートルの海底ケーブルにより四阪島製錬所まで送電を行っていたことなど、歴史的事実を詳細に組み込んだ本編(約15分)は、マイントピア別子にて放映しております。
銅山の記憶は暮らしの中に溶け込んで、街角のそこここに残っている。
ふとした瞬間、歴史のひと幕に気づかされ、まちの奥行きを垣間見るようだ。
(写真/木村 孝)
国領川渓谷沿いには、山裾を縫うように走った下部鉄道軌道跡が残り、往時をしのぶことができる。写真は物言嶽(ものいわだけ)トンネル。廃線跡には現役の坑水路が通る。(※一般立入禁止)
幹部社員住宅だった山田社宅の一角に、外国人技術者のため昭和14年頃に造られた2階建ての洋館が2棟残る。玄関の吹き抜けを巡る階段やバルコニーなどが特徴。(※一般立入禁止)
坑内水を流す水路は明治時代、下部鉄道沿いに作られ、途中で中和処理をして海に流された。今も銅山から水が出るため、坑水路が通っている。コンクリートの溝がそれ。(※一般立入禁止)
旧別子には、料亭や醸造所、劇場、気象観測所もあった。今も山中に多くの石垣やレンガ塀の遺跡が残り、静かに往時の栄華を語っている。
江戸時代に大火災で亡くなった犠牲者をまつる。今も毎年、住友関係者が登山して、盆供養を行っている。ヤマは厳しい地形と気候、頻発する災害に悩まされた。
銅山の記憶は暮らしの中に溶け込んで、街角のそこここに残っている。
ふとした瞬間、歴史のひと幕に気づかされ、まちの奥行きを垣間見るようだ。
(写真/木村 孝)
平成4年(1992)、別子開坑300年を記念して、住友グループ21社が新居浜市に寄贈した建物。銅板葺きの2つの楕円屋根が印象的で、屋根には緑青(ろくしょう)が吹いている。屋根内側の番傘(ばんがさ)のような天井は圧巻だ。100本の鋼材が放射状に掛け渡され、トップライトは開閉できる。
日暮別邸は、明治39年(1906)四阪島(しさかじま)に建設された木造2階建ての洋館。設計者は、大阪府立中之島図書館の設計で知られる野口孫市で、レンガの煙突や薄いピンクの板張りが印象的。「日暮」は島の地名で、四阪島製錬所の設計建設を行った技師・塩野門之助が、日の暮れるまでそこで構想を練ったことに由来する。戦前は住友家の別邸や接待館として利用。平成30年(2018)秋、日暮別邸記念館として星越(ほしごえ)山頂に移築された。
広瀬宰平の旧邸宅で明治20年前後に整備された。和風建築に、ガラス、洋式トイレ、マントルピース、避雷針など、西洋の文化を多数採用。母屋2階の望煙楼から市街を一望できる。
明治45年(1912)建設。当時、わが国最大級の出力を誇り、山麓の端出場から遠く四阪島製錬所まで、海底ケーブルで送電。現在、中には入れないが、赤レンガ造りの建屋は一見の価値あり。
国領川西の海沿いには、住友化学、住友金属鉱山、住友重機械工業など住友グループの工場や石油化学コンビナートが立ち並び、近未来的でスタイリッシュな美しさをみせている。夕暮れ時や闇夜に浮かびあがる姿は圧倒的だ。
「えんとつ山」の名で親しまれているには、高さ20mほどの山根製錬所の煙突が残る。ここでは銅製錬のほか化学薬品の生産や製鉄試験も行われた。上の写真はえんとつ山頂上から見た風景。瀬戸内海に浮かぶ島々が見える。
ここは鉱山町の夢のあと。銅山の施設だけでなく、学校、病院、劇場などもそろっていた。最盛期の大正時代は、約5000人が暮らし、別子銅山の中心として花開く。
今、崩れかけたレンガや石垣に雑草がまといつく姿は、哀愁を漂わせながらも、かつての繁栄を雄弁にものがたり、夢を追った人々の、喜びと哀しみとふんばりが、見えてくるようだ。
選鉱場と索道停車場跡。搬出された鉱石は、選鉱場で鉱石と岩石により分けて、順次、索道(ロープウェイ)で、ふもとに下ろした。そこから鉄道を経由して、新居浜市沖の製錬所まで運んだ。
別子銅山は、江戸の開坑から明治まで、標高1000mを超える山中(旧別子と呼ばれる)にまちができ、採掘や製錬が行われた。明治になって近代化されると、何千人もの人で賑わった。
山頂から始まった採掘が徐々に低い場所におりるにつれ、鉱山町もおりてくる。大正時代には、北側の中腹750mの東平に、その中心が移った。ひな壇状に石垣を築いて大規模に開発されたまちである。
昭和に入ると中心はさらに下って山裾の端出場(はでば)に移り、昭和48年の閉山を迎えることになる。
旧別子も東平も、険しい斜面に、銅山施設、社宅、学校、劇場が立ち並び、鉄道も敷設された。山中ですべてのことが足りる一つのまちである。歌舞伎の興行が行われたり、生活用品が運ばれたり、地上より豊かな暮らしを享受できたようだ。
だが、冬の寒さや豪雪など、山中での苛酷な労働環境に加え、火災や風水害にもしばしば見舞われた。それでも、明治の初めにやってきたフランス人技師は、別子の住民は真摯で我慢強かったと、記録に残している。
ここで働き、結婚し、人生を終えた人々。彼らが新居浜の礎を築いた事実が胸を打つ。
新居浜のまちが発展するのは、明治になって銅山の施設が平野に移ってからだ。別子銅山でも新居浜でも、近代化や近代の新しい考えがいち早く開花するが、そこには先見の明を持つ、住友のレジェンドたちがいた。
まず、初代総理事の広瀬宰平(ひろせさいへい)。彼は明治の初め、西洋の最新技術を取り入れて、手作業だったそれまでのやり方を大胆に改革する。また本格的な製錬所を作り、山中の銅山と平野の製錬所をドイツから輸入した鉄道で結んだ。別子の採鉱高はぐんぐん増え、日本の国力アップにも大きな貢献をする。
まちはその後、洋風の銀行や病院も作られて発展していった。
2人目は早くから環境問題にとりくんだ二代総理事の伊庭貞剛(いばていごう)。銅の製錬で禿げ山になっていた別子に、明治時代から長年にかけて年間百万本を超える植林を進めた。その結果、別子の山は美しい緑の森に還った。
3人目は住友別子銅山最高責任者の鷲尾勘解治(わしおかげじ)。昭和の初め、銅山なきあとのまちの繁栄策を考え、都市計画をうち立てた。
別子銅山は新居浜を四国屈指の工業都市に導き、また、別子を母体に住友のたくさんの事業が生まれていった。
いつの時代もこのまちは最新の知識や技術や思想を取り入れたが、その足跡があちこちに残っていて興味深い。
無人島に、社宅、学校、病院、商店街、劇場などを作り、人口5000人を超える時もあった。
四阪島製錬所は、煙害をなくすため、明治38年(1905)に作られたが、被害は逆に広がった。昭和14年(1939)中和工場の完成により、煙害問題が完全解決する。
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