市民インタビュー
芸術家への原点 「手塚治虫」
手塚治虫展実行委員会 委員長 新居浜文化協会 会長 篠原 雅士 (しのはら まさし/新居浜市)さん
『ジャングル大帝』『ブラック・ジャック』など多数の作品を執筆、「マンガの神様」と称された手塚治虫。また、テレビの黎明期であった1963年にテレビアニメの「鉄腕アトム」が放送開始、当時の子ども達に大きな影響を与えた。12月7日からあかがねミュージアムで開催している『手塚治虫展』実行委員長の篠原雅士さんに聞く、『手塚治虫と私』。
「初めて手塚治虫を知ったのは小学校4〜5年の頃だったと思います」
現在80歳の篠原さん、少年時代は昭和20年代の中頃。当時発行されていた月刊雑誌『少年』を毎月購入してもらっており、昭和26年に連載が始まった『アトム大使』(翌年から鉄腕アトム)の記憶は、おぼろげながらも残っている。
「当時、アトムに『原子力自動車』が描かれていたのに興味を持ちました。『これが衝突したらどうなるんだろう?』そんなことを子どもながらに思った記憶があります」
戦後すぐの混乱した時代だが、マンガを読むのは好きだったし、時代も「マンガ」という娯楽を求めていた。篠原さんが購読していた月刊雑誌『少年』も、『怪人二十面相』などの読み物からマンガを中心とした編集にシフトしていき、少年マンガ雑誌も次々と創刊された。篠原さんは当時を思い出す。
「病気の治療で、当時山根にあった住友病院へ行くのが嫌で嫌で…。『マンガを買ってくれたら病院へ行く』と条件を出したら、父親は喜光地の本屋へ行ってマンガ雑誌『冒険王』を買ってくれましたね」
当時、手塚治虫が発表したマンガは画期的だった。映画の手法を取り入れたそれまでとは全く違うコマ割り、誇張された立体的な画法、そして手塚治虫が生みだした「ストーリーマンガ」という形…。篠原少年に与えた影響は大きかった。
マンガをよく読む少年だった篠原さんも、やがて青年に。著名な華道家・篠原楊月氏の長男として生まれ育ったものの、親に対しての反発もあった。「あの頃は『父親に対抗したい』と、違う芸術に進もうと思っていた」篠原さんは音楽家や彫刻家への道などを模索する。
その頃、少年時代に雑誌で見ていた『鉄腕アトム』がテレビアニメーションとして放送を開始。当時19歳の篠原さんは衝撃を受ける。
「ブラウン管の中で『絵が動く』ことに驚きました。それまで『絵が動くこと=パラパラマンガ』くらいしか知らなかった」軽快な音楽と共に、空を飛び、敵と戦うアトムの姿。そして『お茶の水博士』との親子にも似た愛…。ブラウン管を通じて、篠原さんには伝わった。
「お茶の水博士がアトムを引き取り育てていく…。2人の印象が非常に強い。当時19歳、もう子どもではなかったので、手塚治虫が『鉄腕アトム』の中で伝えたかったこと、そんなこともテレビを見て理解できた年頃でした」
篠原さんが「私に音楽家は向いていない!」と思いつつ、レッスンから帰ってきたある日、「これで生けてみろ」と言わんばかりに家には花が並べられていた。父・楊月氏からの愛だったのかもしれない。「なんの知識もなかったつもりですが、華道家の家庭で育った私、生けることができたんですよ。門前の小僧…ですね」遠回りはしたが、篠原さんは生け花への道を歩み出した。
『従来の常識にとらわれることなく、新しいアイディアを作品に取り組んでいく』手塚治虫の基本姿勢に篠原さんは「これこそが芸術、全ての芸術に言えること」と話す。今では華道家として、そして陶芸家としても道を極め、新居浜文化協会会長として新居浜の芸術界を牽引する篠原さん。
芸術の原点は少年の頃に出会った『手塚治虫』にあったのかもしれない…。
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手塚治虫展
■日程 2024年12月7日(土)〜 2025年1月19日(日)
■時間 9:30〜17:00 (入場は16:30まで)
■場所 新居浜市美術館 (あかがねミュージアム2階)
■問い あかがねミュージアム 0897-31-0305
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フリーペーパーHoo-JA! 2024年12月21日号 掲載